トンボの生態学
4.羽化−2通りの羽化の形式 目次

トンボの生物学 4.羽化−2通りの羽化の形式
羽化型の分類に関する考察

 枝(1959)は,ムカシヤンマの羽化を観察したときに,羽化型について定義しています.それによると,『羽化において肢を胸部側面につけぴたりと止まる時期を休止期といい,その休止期の姿勢によって,直立型 upright type と倒垂型 hanging type に大別することができる』と述べています(写真1).さらに,枝(1963)は,ムカシトンボの羽化を観察したとき,各種トンボの羽化をこれら二つの型に分け,ほとんどの場合,科 family のまとまりでどちらかに属すると述べています.この見解は,最新かつ世界中の研究を網羅したトンボの生態学書である「トンボの博物学 Corbet (1999)」でもそのまま引用されており,ほぼ世界的に定着した考え方であるといえます.

 枝(1963)によると,直立型の羽化をするトンボは,イトトンボ科 Coenagrionidae,モノサシトンボ科 Platycnemididae,アオイトトンボ科 Lestidae,日本のムカシヤンマ科 Petaluridae,サナエトンボ科 Gomphidae の各種であり,倒垂型の羽化をするのは,カワトンボ科 Calopterygidae,外国産のムカシヤンマ科数種,ヤンマ科 Aeshnidae,オニヤンマ科 Cordulegastridae,トンボ科 Libellulidae の各種とされています.さらに井上・谷(1999)では,その後の研究成果をふまえ,ヤマイトトンボ科 Megapodagrionidae 及びミナミカワトンボ科 Euphaeidae を直立型に,エゾトンボ科 Corduliidae を倒垂型に,それぞれを付け加えています.

 写真1に典型的な倒垂型の羽化と直立型の羽化を示しました.倒垂型の羽化は,休止期において腹部と胸部・頭部のなす角度がほぼ180°,つまりまっすぐに伸びきっているのに対し,直立型ではその角度がほぼ90°になって,前方に向いています.私は,系統進化を考える際には,両羽化の定義において,この角度が重要であると考えています.枝(1959)にはそこまでの記述はありません.

羽化の定義は休止期の姿勢によってなされている
写真1.羽化の定義は休止期の姿勢によってなされている.左:倒垂型の羽化(トラフトンボ)と,右:直立型の羽化(フタスジサナエ)
 羽化の形式の分け方に関しては,私も基本的には枝(1963)の意見にほぼ賛成で,拙著「神戸のトンボ」ではこのように解説しました.しかし私は最近,この中でカワトンボ科についてだけは,少し再考察が必要ではないかと考えています.結論から言うと,上記の静止期の角度を含めた考え方によれば,カワトンボ科は直立型になるということです.写真2左はアオハダトンボの羽化の休止期です.確かに体全体が大きく下後方に傾いています.でも頭部・胸部は腹部に対してほぼ直角を保っており,写真1左のトラフトンボのようにのけぞってはいません.これは単に腹部が細く上半身を支えられないために下方に下がっているだけと考えられます.

羽化の定義とカワトンボ科の休止期
写真2.左:アオハダトンボの羽化(休止期)と,右:ハグロトンボの翅の伸張完了時期.
 これに気づいてから,私は,日本産のカワトンボ科の羽化の報告がないかと探してみましたが,意外にもカワトンボ科の羽化に関して報告した文献がなかなか見あたらないのです.インターネットでは,S. SHIMURA 氏のページ「近畿地方のトンボ雑記」の中に,アサヒナカワトンボの羽化経過の写真があり,この休止期の写真を見るとやはり直立型の定義にあてはまります.また,杉村ら(1999)には次のように書かれています.「均翅亜目の中でもカワトンボ科はかなりはっきり背方へ反り返り,両者の中間かむしろ倒垂型に近い姿勢をとる」.これによると一応倒垂型に分類していると考えられますが,明確に倒垂型であるとは断言していません.そして山本ら(2009)では,はっきりとカワトンボ科を直立型に分類しています.

 カワトンボ科は翅の伸張が生じる羽化の後半では倒垂型のように羽化殻にぶら下がっています(写真2右).したがってこれを見ると倒垂型のように見えますが,羽化型の定義は休止期の姿勢によってなされていますから直立型であると考えるべきでしょう.

 したがって,現時点で,私は,カワトンボ科に関しては,「直立型の羽化をするが,後半は倒垂型のようにふるまう」という見解を持っています.こうなれば,均翅亜目のほとんどすべてが直立型に属することになり,トンボの系統性においても非常にすっきりするような気がしています.

トンボの生物学 4.羽化−2通りの羽化の形式
翅の伸張期にかかる問題

 ところで,直立型の羽化にはもう一つ再考すべき問題があります.それは翅の伸張の仕方です.翅の伸張期については,枝(1976)には,「一般に倒垂型ではちぢんでいる翅を均等に伸ばしていくように伸びますが,直立型では翅の根本の方から徐々に伸びて先端に達します.」と書かれています.あくまで「一般に」と書かれているので例外はあることを含んでいますが,特に直立型では「一般に」とは言えないほど例外があると考えています.日本産の身近なトンボの観察結果から言いますと,イトトンボ科,モノサシトンボ科,ムカシヤンマ科,サナエトンボ科は翅の根本から徐々に伸びるタイプですが,カワトンボ科,アオイトトンボ科,ヤマイトトンボ科は全体が均一に伸びるタイプです.

基部から伸びるタイプの翅の伸張
写真3.いずれも翅は基部から伸びている.後肢で下半身を支え重力に抗した姿勢を取っている.左:ダビドサナエ,右:クロイトトンボ.
一様に伸びるタイプの翅の伸張
写真4.いずれも翅は重力の方向に一様に伸びている.後肢は体を支えているようには見えない.左:オオアオイトトンボ,右:ハグロトンボ.
 カワトンボ科,アオイトトンボ科,ヤマイトトンボ科の各種のトンボは,一般に羽化の定位の角度は90度あるいはそれを越える値になり,縦から仰向けに近い姿勢で止まって羽化をします.これは後半の翅の伸張が,倒垂型の羽化をするトンボと同様,重力に沿った方向に伸びていくためであろうと考えられます.

 対して,サナエトンボ科やイトトンボ科のように基部から伸長するタイプでは,重力に沿った方向に翅は伸びていません.翅の伸張期に後肢で腹部を支え持ち上げるような姿勢を取り,むしろ重力に抗した姿勢を取っています(写真3).これらの羽化殻は垂直に近い位置に着いているものもありますが,ほとんど水平な位置に着いているものも見られます.これは翅の伸張期に写真3のような姿勢を取るために水平な位置での羽化が可能なのだと思われます.

 一方でムカシヤンマは翅が基部から伸長するタイプですが,この伸張期に体はぶら下がっていると言った方がよいような状態で,重力に抗した姿勢とは言えないように見えます.写真5で見て分かるように,倒垂型のクロスジギンヤンマとほぼ同じ姿勢になっています.

ムカシヤンマとクロスジギンヤンマの翅の伸張期の比較
写真5.直立型のムカシヤンマ(左)と倒錘型のクロスジギンヤンマ(右)の翅の伸張がほぼ終わったところ.
ムカシヤンマの翅は基部から伸長するが,ぶら下がる姿勢を取り,倒垂型とよく似ている.
 最後になりましたが,以上の議論で一つだけ注意するべきことがあります.翅の伸張の仕方について,「基部から伸びる」あるいは「一様に伸びる」と言ってここで区別していますが,実際の羽化を観察すると,中間的に見える場合も結構あるのです.これは翅の伸張という,連続的に変化するような形質を相手にしているので致し方ないことかもしれません.ここの議論をきちんと整理するためには,翅の伸張の仕方についての明確な定義が必要なのですが,残念ながら現時点ではまだよい定義が見い出せていません.

トンボの生物学 4.羽化−2通りの羽化の形式
まとめ
 現時点での,私の今までの観察や文献資料を基にしたことを整理すると,以下のようになります,

 羽化には直立型と倒垂型があって,それぞれは休止期における頭部・胸部の腹部に対する角度で定義するべきで,大きくのけぞるかどうかは定義からはずすべきだと考えます.続いて,腹部を抜いた後の翅の伸張期については,倒垂型は翅が重力の方向に一様に伸びていく一つのタイプにまとめられますが,直立型には2種類あって,翅が基部から伸びていくタイプと,重力に沿った方向に一様に伸びていくタイプに分けられます.さらにそのときの姿勢は,重力に抗する姿勢を取るタイプと,ぶら下がり姿勢を取るタイプがあります.このうち重力に抗する姿勢を取るものは翅が基部から伸びる様式で,これらのトンボは羽化定位の角度がほぼ0°,つまり水平な位置でも羽化できるトンボと言うことになります.

亜目 Suborder 科 family 羽化型 翅の伸張 翅伸張期の姿勢
均翅亜目 カワトンボ科 直立型 一様 ぶら下がり
ヤマイトトンボ科 直立型 一様 ぶら下がり
アオイトトンボ科 直立型 一様 ぶら下がり
モノサシトンボ科※1 直立型 基部から 重力に抗する
イトトンボ科 直立型 基部から 重力に抗する
不均翅亜目 ムカシトンボ科 倒垂型 一様 ぶら下がり
ムカシヤンマ科 直立型 基部から ぶら下がり
ヤンマ科 倒垂型 一様 ぶら下がり
サナエトンボ科 直立型 基部から 重力に抗する
オニヤンマ科 倒垂型 一様 ぶら下がり
エゾトンボ科 倒垂型 一様 ぶら下がり
トンボ科※2 倒垂型 一様 ぶら下がり
※1:南西諸島に産するルリモントンボ属の羽化については調査の必要がある.
※2:ウミアカトンボについては調査の必要がある.

 兵庫県域外に生息するトンボや,また外国のトンボなど,科毎にまとめ上げるにはあまりにも資料が不足しています.また,翅の伸張やそのときの姿勢に関しては,科毎に整理できるかどうか分からない部分があります.属単位,あるいは種単位で異なる可能性もあります.ここで私が述べておきたいことは,羽化型に関する定義の明確化や,羽化姿勢のまとめ方をもう少し細かく分類して整理するなど,羽化に関する知識の再整理が必要なのではないかということです.

トンボの生物学 4.羽化−2通りの羽化の形式
直立型の羽化

 羽化の過程については,文章で書くより,写真で見ていただく方が確実です.下の一連の写真は,ヤマサナエの羽化を野外で観察したときのものです.全体でだいたい1時間足らずで羽化を完了してしまいました.休止期の姿勢から典型的な直立型です.

オキナワサナエの羽化
水からあがり定位し,皮が破れて徐々に上体が起き上がってくるところです.
オキナワサナエの羽化
休止期は典型的な直立型です.休止期が終わると突然前にかがみ込み,一気に腹部を抜き去ります.
オキナワサナエの羽化
翅は基部から伸びていきます.直立型の大きな特徴の一つです.
オキナワサナエの羽化
腹部も伸びて,翅が開きます.こうなるともう一生翅をたたむことはありません.
トンボの生物学 4.羽化−2通りの羽化の形式
倒垂型の羽化

 倒垂型の羽化も写真で見ていただきましょう.クロスジギンヤンマの自宅内での羽化です.20:05 に定位して,最後から2枚目の状態になったのが 1:02 でした.休止期で30分過ごしており,これが長いのが倒垂型の一般的な特徴です.

クロスジギンヤンマの羽化
枝に登り定位,その後背中が割れて,成虫が姿を見せ始めた.
クロスジギンヤンマの羽化
休止期を30分ほど過ごした後,起きあがって一気に腹部を抜き去る.
クロスジギンヤンマの羽化
翅は全体が一様に伸びる.肛門水といって体内の不要な水分を放出している(中).
その後翅が開いて,羽化が完了した.
トンボの生物学 4.羽化−2通りの羽化の形式
羽化殻を観察しよう

 羽化というと,そのダイナミックな変身の姿にばかり注目が集まりますが,成虫が飛び去った後に残された羽化殻も,なかなか味があっていいものです.トンボが何か語っているように感じるのは私だけでしょうか.まあ,文学的な感想はさておいて,どういったところで羽化しているかを知ることや,羽化殻の状態(泥が付いていたりいなかったり)は,そのトンボの生態を知る上で貴重な資料となります.羽化殻の写真を撮り,それを収集しても自然破壊になりませんから,これからは是非勧めたいトンボ観察の一方法です.

羽化殻の観察
左:植生豊かな池で羽化したチョウトンボの羽化殻.右:まっ逆さまについているクロスジギンヤンマの羽化殻.
羽化殻の観察
左:コンクリート護岸の上で羽化したウチワヤンマ.右:護岸に咲く草につかまって羽化したオオヤマトンボ.
羽化殻の観察
左:湿地で羽化したハラビロトンボ(背景で水が輝いている).右:葉の裏側で羽化したオオアオイトトンボ.
羽化殻の観察
左:コシアキトンボの集団羽化.右:コフキトンボの大量発生した池での集団羽化.
参考文献
Corbet, P. S., 1999. Dragonflies Behavior and Ecology of Odonata. Cornell Universitiy Press. New York.
Dunkle, S. W., 1990. Damselflies of Florida, Bermuda and the Bahamas. Scientific Publishers. Gainesville, Florida - Washington D.C.
枝 重夫,1959.ムカシヤンマの羽化経過.Tombo 2(3/4): 18-24.
枝 重夫,1963.ムカシトンボの羽化観察.Tombo 6(1/2): 2-7.
井上清・谷幸三,1999.トンボのすべて.トンボ出版.大阪.
新村捷介,近畿地方のトンボ雑記.http://www.tombon.com/index.htm
杉村光俊・石田昇三・小島圭三・石田勝義・青木典司,1999.原色日本トンボ幼虫成虫大図鑑.北海道大学図書刊行会.札幌.