トンボ歳時記総集編 5月−6月上旬

小さく目立たない春のヤンマ
写真1.春,ハンノキの葉が芽吹く小さな湿地.

 春一番に現れるヤンマといえば,クロスジギンヤンマを思い浮かべます.そして,ギンヤンマもそれに負けずに早く出現する個体があります.しかし,ほとんど目立たないのですが,同じくらい早く現れるヤンマにサラサヤンマがいます.サラサヤンマは池や川には生息していません.湿地,それもかなり乾燥化が進んだ湿地に生息するヤンマです.開けた湿地にも飛んでいますが,ハンノキなどの木々があまり密に生えていないような湿地を好んでいます.そういった湿地は,サラサヤンマが活動する春には,まだ葉が芽吹き始めたばかりで,林床に光が射しこんで明るいです.そういった湿地と,その周辺がサラサヤンマの行動圏です.
 兵庫県におけるサラサヤンマの羽化は,早ければ4月の下旬に始まりますが,だいたいは5月に入ってからです.5月中旬になると,生息地周辺の開けた農道や道路の上を往復しながら飛んで,摂食飛翔を行っているのが観察できます.トンボに特に興味のないふつうの人がサラサヤンマを目にするのは,このときでしょう.

写真2.左:4月30日(T.Y.氏撮影),右:5月10日.ため池上流に広がった湿地で羽化するメス(左)と,農道で摂食飛翔するオス.
写真3.5月10日.農道の上を往復して飛翔し,摂食活動を行うオス.午後1:30ころ,昼食タイムであろうか...

 サラサヤンマのオスの縄張りは,湿地の水のない,あるいはわずかに水がたまっている凹地に形成されます.大きさは畳半畳くらいから3畳くらいまでのところが多いです.オスはホバリングをしながら,その凹地の上を往ったり来たりして,メスを待っています.しばらく飛ぶと,その凹地全体が見渡せる低い位置に止まって,縄張りを監視します.凹地に背を向けるようにして止まることが多いです.こういったところで活動するサラサヤンマは,なんとなく陰湿な感じに見えます.ストロボを使って撮影するので写真は明るくなりますが,実際はなかなか見にくいものです.

写真4.6月5日.左側に広がる凹地が縄張りで,その縁に背を向けるようにして止まっているサラサヤンマのオス.
写真5.6月5日.縄張りの凹地の上でホバリングするオス(左)と縁に静止するオス(右).
写真6.6月5日.縄張りの凹地でホバリング飛翔するオス.左下はストロボを使わず撮影.実際はこのような感じで活動している.

 上の写真の縄張りは,湿地の縁にササが密に生えていて,そのササに囲まれたようなうす暗い場所にできた凹地です.この凹地には,雨が続くと水がたまります.一方で,ササなどが生えていないところでは,樹林の中の開けたところの凹地で,やはりオスは縄張りを形成します.こういった凹地以外にも,湿地に生えている背の低い草の上を,5m程度の少し広い範囲で往復飛翔してメスを待つオスもいます.しばらく観察していると,オスは観察者である人間を恐れなくなり,膝や長靴に止まって縄張りを監視するような行動を見せることもあります.
 ところで,サラサヤンマが縄張りにする凹地は,なぜ湿地の所々にできるのでしょう.以前から疑問になっていたのですが,観察を続けるうちにその正体が分かりました.それはイノシシが掘った穴だったのです.イノシシは湿地の泥を掘り返し泥浴をします.その跡がくぼみになり,雨水がたまり,浸食されて,きれいな皿状の凹地となるのです.そういう水たまりには幼虫も見つかることがあります.イノシシの湿地を掘り返す営みが,サラサヤンマの生育場所をつくっているのです.

写真7.5月24日.開けた凹地を縄張りに持つオス.ホバリング飛翔と静止.右下は,私の長靴に止まって縄張りを監視する同じオス.
写真8.5月26日.特に凹地にこだわらず,湿地に生える草の上を飛び回って縄張り形成をしているオス.

 5月下旬,よく晴れた日の午後になると,メスが産卵にやって来きます.特にオスを避けた時間帯というほどでもないようで,オスに見つかることも多いようです.昼過ぎに産卵にやって来るメスは次々とオスにさらわれて,交尾を強要されています.強要という言い方は当たっていないかもしれません.メスは交尾されることを前提にして,この時間帯にやって来るという見方もできるからです.というのは,オスが少なくなる16:00を過ぎたあたりに,産卵にやって来る個体もいるからです.
 まあ,メスの気持ちはどうであるにしろ,オスは,メスを見ると,一気にダッシュしてメスの上に乗りかかり,地面に落ちたところを押さえ込み,タンデムになります.そして湿地に生えている木の枝にぶら下がって,交尾を行います.交尾は1時間あまりで,それほど長時間ではありません.

写真9.5月26日,交尾:5月25日.湿地に入ってきたメスは,オスに押さえつけられてタンデムになる.その後木の枝にぶら下がって交尾が行われる.

 産卵は主に午後になるようです.個体数が多い生息場所ではかなり頻繁にメスが入ってきます.メスは,オスに見つからないように低く飛んで,草の間を縫うように移動して産卵場所をさがします.産卵基質には朽木が選ばれることが多いようです.湿ったやわらかい朽木や,コケなどが生えた朽木によく産卵しています.朽木以外では,泥の中にも産卵することがあります.

写真10.5月25日.ササの茂みの間を飛んで産卵場所をさがすメス.
写真11.5月25日.朽木に産卵しているサラサヤンマのメス.
写真12.5月25日.泥に産卵しようとしているメス(左)と,苔むす朽木に産卵しているメス(右).

 やや乾燥した湿地の地面には,朽木,石,泥,落ち葉など,さまざまなものがころがっています.メスは卵を置く位置を熱心に選択しているようです.あちこちに止まっては産卵管を突き立てて,卵を置くのに適しているかどうか調べています.産卵管が突き立たない石など,気に入らない基質の場合は,すぐに飛び立って次の場所に移動します.やがて,気に入った基質に当たると,そこでは時間をかけて産卵を続けます.やはり,持続的に産卵行動を続ける基質は,朽木が圧倒的に多いです.

写真13.5月26日.兵庫県北部.石やコケなど,いろいろな産卵基質を確かめ,最後に湿った朽木にたどり着いて,産卵を続けた.
写真14.5月26日.上の次に移動して止まった苔むす朽木(左).メスがこちらに向かって飛んできたかと思うと,長靴も産卵基質として調査した(右).

 サラサヤンマは5月下旬から6月上旬にかけてがもっとも数が多く,その繁殖活動の観察に適しています.その後少しずつ数を減らし,だいたい6月いっぱいまでその姿を見ることができます.