トンボ歳時記総集編 6月

いちばん遅く現れる春季種
写真1.植生豊かな河川中流域.

 春季種というのは,冬を終齢で過ごした幼虫集団だけが翌春羽化し,残りの若齢幼虫集団の羽化は翌年以降に持ち越されるような生活史を持つトンボのことをいいます.もちろん,一年一化のトンボの場合には「残りの若齢幼虫集団」というのは存在しません.また一年に二化以上するトンボには,春季種というのは,その定義上存在しません.
 トンボの生活史が春季種の様態になるためには,生活史のコントロールが三つ必要であると考えられています.終齢幼虫で冬を越すということは,冬が来る前に終齢幼虫に脱皮することを意味します.したがって,第一点目は,秋に羽化することが抑制されなければならないということです.暖かい秋が続いても決して羽化が進行してはなりません.秋に羽化してしまうと,成虫で冬を迎えることになりかねないからです.つまり,秋に何らかの発育抑制(休眠)のしくみが必要となるのです.第二点目は,その休眠が冬の間に打破され,温度依存の成長状態になることです.でないと春早くに羽化ができません.そして最後に,終齢で冬をこさなかった幼虫には,しばらく終齢にならないか,終齢になっても羽化が抑制されるしくみがなければなりません.春季種は,その強弱に程度の差はありますが,このような休眠性を持っている種と考えられます.
 春季種というのは,このように休眠が解けて羽化を待つ終齢幼虫が,冬の間水温上昇するのを待っている状態なので,春に水温が上がってくると直ちに羽化の準備に入り,羽化可能な気温になると一斉に羽化をすることになります.したがって,多くの春季種は,それが可能になる4月下旬から5月上旬に集中的に出てくることになるのです.今まで紹介してきたように,春にだけ現れるトンボが結構多いのはこういう理由によります.
 その中で,他の春季種と比較して約1か月遅れて5月下旬に羽化してくるキイロサナエの出現の遅さは,特異的です.キイロサナエは,兵庫県では,一部の地域では5月10日に羽化を見た記録があるものの,だいたい5月20日前後に羽化が始まります.羽化は6月初めまで約3週間続き,その後羽化する個体はいません.これは,かなり厳格に発育制御が行われているためと考えられます.

写真2.5月28日.キイロサナエメスの羽化.産卵弁が下に突き出ているので,キイロサナエと分かる.泥の堆積した流れの水際で羽化する.
写真3.5月24日.キイロサナエオスの羽化過程.羽化はだいたい1時間あまりで完了し,処女飛行に飛び立つ.
写真4.5月28日.処女飛行に飛び立って止まったオス(左)と,羽化不全で翅が傷んでいるメス(右).春のサナエトンボは羽化不全が多い.

 羽化した成虫は,周辺の樹林や草地で過ごします.2週間ほど経つと,成熟したオスが水辺に戻ってきます.キイロサナエは,かなり細い溝川のようなどころから川幅の広い中流域にまで,その生息環境はヤマサナエ同様かなり広くなっています.この時期はまだヤマサナエの成虫も残っていて,ヤマサナエに混じって活動を始めるようになります.オスは流れの岸に生えている植物や石の上に止まって,メスを待ちます.頭を下にした姿勢で止まることが多いです.この時期に早くも産卵に来るメスもいます.

写真5.6月7日.流れに帰ってきたオスたち.オスは左の写真のように頭を下に向けて止まることが多い.
写真6.6月7日.細流に産卵にやって来たメス.流れの上を飛んだ後,岸辺の草に止まって卵塊をつくる.左写真の右上の草に止まるメス(右).
写真7.6月7日.草に止まって卵塊をつくっているメス.産卵弁と第9,10節腹板の間に卵塊をつくっている.
写真8.6月7日.卵塊をつくった後,水面を飛んで打水し放卵する.そして,また草に止まって卵塊をつくる.これを数回繰り返す.

 6月の中旬から下旬になると,キイロサナエの繁殖活動は最盛期を迎えます.流れの岸にはオスたちが並び,ときどき追いかけ合いをしています.しかし,縄張りの形成とまではいかないようで,2,3mおきにオスが止まっていて,特に激しい排他性は見られません.時には仲良く2頭が並んで止まっているときもあります.

写真9.6月26日.オスは流れに,2,3m程度離れて並んで止まっている.
写真10.6月24日.オスが2頭並んで止まっている.互いに気づかないのか,縄張り意識が低いのか...,強い排他性が見られない証拠である.

 こういう状態の時,メスは,オスから見えないような所に入って産卵をすることが多いようです.キイロサナエの産卵方式はいくつかあって,写真5から写真8に示したように,静止して卵塊をつくり飛んで打水する方式のほかに,連続打水産卵,ホバリングして卵塊をつくって間欠的に打水する産卵方式などがあります.ビデオに連続打水産卵するキイロサナエを紹介しています.トントンとリズミカルに打水しているのが分かります.また写真11から写真14も連続打水産卵の記録です.産卵を見つけた時刻が9:18:04,産卵を終えて静止したのが9:26:02と記録されていますので,約8分間産卵を続けていたことになり,連続打水産卵としては結構長いと思います.

写真11.6月21日.オスから姿が見えない,岸部に壁のある流れで連続打水産卵するメス.低い位置から体を回転するようにして打水する.
写真12.6月21日.打水の瞬間.翅をそろえて前方に打ち下ろしている.
写真13.6月21日.打水の前に産卵弁には少し卵が出ているのが見える.そして打水した瞬間に水の中に卵が広がっている.
写真14.6月21日.産卵が終わるとメスはすぐ上の植物の葉に止まった.8分間の産卵に疲れ休息しているのだろう.

 次に,ホバリングして卵塊をつくる間歇打水産卵をしているキイロサナエを紹介しましょう.水面上30−50cmくらいの所で停止飛翔して卵塊を形成し,打水します.連続打水産卵の場合は,水面上15cmくらいの所を飛翔するので,高さがずいぶん違います.

写真15.6月21日.ホバリングして卵塊をつくり,間欠打水産卵するメス.卵塊で見える(矢印).右上は連続打水産卵の時のメス.水面から近い.

 6月下旬に繁殖期の最盛期を迎えた後,7月に入ってだんだんとその姿が消えていきます.7月下旬には,ほとんどその姿が見られなくなります.私の観察では8月9日のメスというのがもっとも遅い記録です.このメスは流れから飛び出してきて,腹端も濡れており,産卵していたような気配がありました.

写真16.7月13日.まだまだ元気に活動しているキイロサナエのオス.
写真17.7月17日.流れの畔に石に止まってメスを待っているオス(左)と,日陰の樹木に止まっているオス(右).
写真18.キイロサナエの遅い記録.7月31日,夕日を浴びて流畔に止まるオス(左).8月9日,産卵していたような気配があった流れから飛び出してきたメス(右).