トンボ歳時記総集編 4月−5月上旬

春一番のカワトンボたち
写真1.アブラナ科の黄色い花が満開の4月の河川.

 川のトンボたちの中にも,春早く姿を現すものがいます.アサヒナカワトンボとニホンカワトンボです.春の日差しのもと,水が流れていない池に比べると,流れている川は水温が低いのではないかと思われますが,それでも,コサナエのなかまにひけをとらないくらい早く羽化してきます.まずはアサヒナカワトンボから観察を始めましょう.
 アサヒナカワトンボは,どちらかといえば,川の上流域に多いトンボです.一般に上流域は林に囲まれた,日陰の多い流れになっています.中流域でも,丘陵地の林を流れる小さな支流にはよく住みついています.また湿地を流れる細流,山道の横を流れる湧水に起源を持つような細流にも入りこんでいます.要は,樹林があって狭い流れであれば生活できるようです.羽化は4月20日前後から始まります.未熟な個体は流れの周辺の木々に止まって過ごします.

写真2.4月20日.テネラルなアサヒナカワトンボのオス.腹部には白粉を生じることもなく,縁紋がまだ白い.
写真3.左:4月29日,右:4月19日.テネラルなアサヒナカワトンボのメス.

 通常は,4月の終わりころから5月はじめころから,交尾,産卵の繁殖活動が見られはじめます.しかし,ただ川に沿って歩いているだけでは,産卵しているメスを見かけることが意外と少ないのです.産卵しているメスは結構敏感なようで,人が近づく気配を感じると,産卵をやめてさっと飛び上がってしまいます.兵庫県の透明翅型アサヒナカワトンボは,オスが縄張りを持ち,産卵時もメスを警護しますので,産卵をやめて飛び上がったメスには,たいていオスが随伴しています.飛び上がったメスを逃がさないよう,あるいは他のオスに取られないよう,常にそばにいるという感じです.こんなときはじっとして10−20分ほど待てば,再びメスは流れに降りて産卵を始めます.産卵がよく行われる時間帯は正午前後です.

写真4.5月4日.産卵を観察しようと流れに沿って歩いていくと,産卵していたメスが飛び上がる.オスもそれに付いて飛びメスのそばに止まる.
写真5.5月4日.人の気配を感じて飛び上がった後,産卵を再開したアサヒナカワトンボのメス.
写真6.5月5日.細流で産卵するメス.産卵メスに気づかれるよりこちらが早くメスを見つけた場合には,こういった産卵も観察できる.

 現在日本のカワトンボの分類は,DNAを使った系統分類の手法によって,確定されています.それによると,兵庫県には,ニホンカワトンボ Mnais costalis とアサヒナカワトンボ Mnais pruinosa の2種が分布していることになります.
 しかしそれ以前にはいろいろな説がありました.浜田・井上(1985)の「日本産トンボ大図鑑」によれば,兵庫県に分布するカワトンボは,ニシカワトンボ Mnais pruinosa pruinosa とオオカワトンボ Mnais pruinosa nawai の1種2亜種となっています.しかし,(鈴木,1985)は,このニシカワトンボとオオカワトンボが同所的に生活していることから,亜種関係とするのは不適切として,その他の点も考慮して4種説を唱え,兵庫県などのニシカワトンボの個体群はヒウラカワトンボであるとしました*1.その後,杉村ら(1999)の「原色日本トンボ幼虫・成虫大図鑑」ではオオカワトンボを種に格上げした考えを採用し,それによれば兵庫県のカワトンボは,ニシカワトンボ Mnais pruinosa pruinosa とオオカワトンボ Mnais nawai の2種が分布することになります.
 2亜種説のころ,ニホンカワトンボ(当時オオカワトンボ)は川の中流域に,アサヒナカワトンボ(当時ニシカワトンボ)は川の上流域に,それぞれ棲み分けているという考え方が強かったように記憶しています.しかし,そのころ私は,兵庫県や神戸市でニホンカワトンボは相当上流域にも住んでいて,アサヒナカワトンボと混生していることを観察していましたので,2亜種説に違和感がありました.写真7などはその典型といえるでしょう.現在は2種説なので,その辺は問題は全くありません.

写真7.5月5日.ニホンカワトンボ(右)と同じ朽木でいっしょに産卵しているアサヒナカワトンボ(左).これでは2つは亜種とはいえないだろう.

 このようにカワトンボの分類が話題になっていたころ,カワトンボの繁殖行動についてもいろいろと調べられ報告されました*2.地域個体群によって,カワトンボには翅の色の多型現象が知られ,その組み合わせによって繁殖行動も微妙に違っているというのです.その中で透明翅のオスは,とくに橙色翅のオスが存在する場合には,闘争に負け,縄張りを持てないといわれています.兵庫県のアサヒナカワトンボ(ニシカワトンボ)個体群は,一部を除いて,透明翅オスと透明翅メスだけからなっています.したがって,兵庫県の透明翅オスは縄張りを持つことになりますが,観察によれば,事実その通りになっています.

写真8.5月7日.縄張りを持ち,それを監視するオスたち.右のオスは下に見える朽木がメスの産卵基質(資源)であって,それを占有している.
写真9.5月7日.縄張り内に産卵意欲のあるメスが入ってくると,オスはつかまえて交尾する.産卵意欲のあるメスはほぼ交尾を受け入れる.
写真10.5月7日.交尾が終わると,メスは,オスの警護の下で産卵を行う.
写真11.5月7日.警護するオスたち.警護中別のメスが入ってくると,つかまえて交尾する.その結果複数のメスが縄張り内で産卵する.
写真12.5月7日.見つめ合うように止まって警護するオスと産卵するメス.

 兵庫県は,原則的に透明翅オスと透明翅メスの組み合わせの個体群ですが,県南部にごく一部橙色翅型オスと透明翅型オスと透明翅型メスの組み合わせからなる個体群が存在しています.これを紹介しておきましょう.

写真13.5月15日.橙色翅のオス.いろいろなところに止まって,メスを待っている.
写真14.5月15日.こともあろうに,私の膝に止まって縄張りを監視するオス.透明翅オスもいる.産卵基質の朽木を監視するために飛ぶ.

 兵庫県では,アサヒナカワトンボは,だいたい6月中には姿を消してしまいます.しかし,ときどき7,8月に入ってもその姿を見ることがあります.私のもっとも襲い記録は8月1日です.やや標高の高いところでしたので,遅くまで生き残っていたのかもしれません.

写真15.8月1日.遅くまで生き残っていたアサヒナカワトンボのメス.六甲山地の河川にて.

 さて,春一番に出現するもう一つのカワトンボは,ニホンカワトンボです.ニホンカワトンボは河川の上流から中流に至るまで,広い範囲に生活しています.アサヒナカワトンボは,川幅が広くなる中流域にはあまり見られません.ニホンカワトンボは4月20日前後に羽化します.羽化した個体は,川から少し離れた樹林の林床や,川から続く農道に分散します.その距離はたいして大きくはありません.また林床といっても,このころの落葉樹からなる雑木林は葉がまだ少ししか芽吹いていなくて,とても明るくなっています.

写真16.4月19日.ニホンカワトンボの羽化殻と羽化.ヨシの茂った中で,この日たくさん羽化をしていた.
写真17.左:4月20日,右:4月19日.未熟なニホンカワトンボは,付近の樹上や(左:オス),明るい林床(右:メス)でしばらく生活する.

 オスは成熟すると,ヨシなどが生えた川に姿を現します.ヨシのような抽水植物は必ずしも必須条件ではなくて,産卵基質が朽木なので,朽木が転がっているようなところであれば姿を見せます.オスは,石の上や朽木の上や植物の葉の上に止まって,メスを待ちます.一つの生息場所では,オスの成熟時期はだいたい同じなので,たくさんの個体が同じ場所に現れます.そして,盛んに縄張り争いが行われます.

写真18.5月15日.ニホンカワトンボ成熟オスの静止.
写真19.5月12日.ニホンカワトンボの闘争.2頭のオスが向き合い,つかみ合い,飛びかかりながら,最後は上空へ舞い上がって,追い払おうとする.
写真20.右:5月8日,他:5月16日.ニホンカワトンボの縄張り静止と,周辺のパトロール飛翔.

 オスはこのように元気に水辺で活動を続けます.そこへ産卵意欲のあるメスが入ってくると,オスはメスを捕まえて,移精行動,交尾へと至ります.こういった活動が見られるのは正午ころが多いようです.ニホンカワトンボがたくさん活動している場所では,この時刻になると,あちこちで産卵しているメスが見られるようになります.まるで産卵タイムがあるようです.

写真21.5月16日.縄張りに入ってきたメスを捕捉し,場所を移動するタンデムペア.
写真22.5月16日.メスを連れて静止したオスはそのまま移精行動に入り(左),交尾に至る(右).
写真23.5月16日.メスのすぐそばに止まって産卵を警護するオス.
写真24.5月16日.植物が生えているほど古い朽木に産卵しているメスたち.

 ニホンカワトンボには,翅の色の多型現象が見られます.透明翅型オス,淡橙色翅型オス,橙色翅型オス,淡橙色翅型メス,透明翅型メスの5型で,兵庫県ではすべての型が確認されています.これら5型のうち,透明翅型オス・メスと淡橙色翅型オスは,主に兵庫県の西部に見られたのですが,2012年に西部の河川で大洪水が起き,その後河川改修が行われ,ニホンカワトンボの個体数が劇的に減少しました.今は5型すべてを探すのは難しくなっています.現在,県下でもっともふつうに見られるのは,橙色翅型オスと淡橙色翅型メスの組み合わせです.ここまでの写真はすべてそれらの型の写真です.それ以外の型は,あちこちの生息地でこれらに混じって少数見られるようになっています.老熟してくると翅が茶色になってくるので区別しにくくなる個体がありますが,基本的に,透明翅型オスと透明翅型メスは翅脈が黒色,淡橙色翅型オス,淡橙色翅型メス,橙色翅型オスは翅脈が橙色をしているので,区別できます.なお,兵庫県で1例だけ,透明翅型メスの翅が白濁している個体を見たことがあります.

写真25.左上・右下:5月8日,左下:6月6日,右上:5月24日.橙色翅型オスと淡橙色翅型メス以外の翅を持つニホンカワトンボ.